ストーリー
「あの男は私の好みではないが、能力がある」 アドルフ・ヒトラー
ヒトラーにとって、マンシュタインはもっとも賢明な部下であった。そして連合軍にとっては、「最も危険な敵」であった。マンシュタインは戦争を生き延びた。国家社会主義から距離をおき、なおかつヒトラーのために無慈悲な戦争を遂行したプロイセンの保守的な将軍として、彼の経歴は典型的なものであった。エーリッヒ・フォン・マンシュタインは1940年のフランス戦線の作戦を立案し、「作戦の天才」という評価を得た。マンシュタインの「大鎌作戦」により、彼のもっとも華々しい戦歴であるフランスへの勝利がもたらされた。
ソビエトへの奇襲以降、マンシュタインは第11軍を率いてクリミア半島を占領し、スターリンがもっとも頑強な要塞を築いたセヴァストーポリを陥落した。そして元帥へと昇進した。マンシュタインが主張した撤退を、ヒトラーは受け入れなかった。その結果、25万人もの兵士がソ連軍に包囲された。東部戦線をめぐる意見の相違が激しくなり、1944年、ヒトラーはマンシュタインを南部の戦線へと異動させた。
「プロイセンの元帥は反逆しない」と、ヒトラー暗殺計画にはかかわらなかった。ヒトラーの軍事計画について意見はしたが、暴政での殺戮は彼にとってタブーだった。彼は「非政治的な軍人」であろうとしたが、彼ができた最善のことは、ヒトラーの恐ろしい目標に気づくことなく戦争を行うことであった。
1949年、ハンブルクで行われたイギリスの軍事法廷によって、マンシュタインは18年の禁固刑に処された。1953年5月、健康上の理由により釈放され、連邦国防軍の創設に協力した。
この映像では、戦争に関して、マンシュタインとヒトラーの対立がどのようなものであったか、なぜ彼が最後まで戦争を引き分けに持ち込むことを考えていたか、そしてなぜ彼が反乱を拒んだかが語られる。マンシュタインの息子リュディガーと娘ギゼラは、父親がヒトラーをどのように考えていたか、彼自身はナチ党の独裁をどのように考えていたかを回想する。