ストーリー
ヒトラーによって、フリードリヒ・パウルスが将軍から元帥へと昇進したとき、彼は負け戦にあった。
彼の名前は、スターリングラードの壊滅的な敗北と、常に結びついている。
第6軍の司令官だったパウルスに、優勢に立つソ連軍に対抗するチャンスはほとんどなかった。日に日に、ドイツの前線との距離は離れていった。しかし、何週間もかけてソ連軍と戦った末、コーカサスのドイツ軍へと退却できる可能性が生まれた。しかし、包囲網を突破しようとする試みは失敗に終わった。ヒトラーは、敵の名を冠した都市を放棄するくらいなら、第6軍を犠牲にしようと考えていた。パウルスは、戦闘の直前に元帥に昇進するということは、自殺を命じられたに等しいということを分かっていた。しかしパウルスは、敗北に際して、従順であることをやめた。彼は1943年1月31日、元帥としてはドイツ戦史上初の捕虜となった。
スターリングラードについては、無数の出版物や映像に収められている。フリードリヒ・パウルスの生涯の、スターリングラード前後に関しては、かなりの部分が闇に包まれており、明らかになっていることは少ない。
捕虜となったのち、彼は「自由ドイツ国民委員会」の象徴的存在として、前線の人々に寝返りを呼びかけた。ニュルンベルク裁判では、かつての上司に対して検察側の証人として出廷した。1953年まで、彼は戦争捕虜としてソ連にとどまった。スターリンにとってもっとも重要な戦利品であったため、丁重に扱われた。
東ドイツにとどまるという彼の決心は、冷戦下において、東西ドイツでプロパガンダの材料となった。パウルスは常に非政治的な軍人であろうとしたが、二度目に政治的に利用されることとなった。そのため彼は精神的に破綻した。彼は、捕虜から釈放されて4年後の1957年2月1日に、ドレスデンで亡くなった。スターリングラードの敗北からちょうど14年目のことだった。
この映像では、KGBのアーカイブにある秘密文書の閲覧も行った。スターリングラードの戦闘の印象深い映像や、パウルスと関係が深い人々とのインタビューによって、彼の軍人としての重要な段階の描写が可能となった。包囲網を生き延びた将校や兵士が、絶望的な戦いでの元帥の役割を明らかにする。娘や嫁、家政婦が、フリードリヒ・パウルスの、戦後の一個人としての運命を語る。